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命題論理 Part3

条件命題の逆、裏、対偶

条件命題  A \Rightarrow B に対して、 A B をひっくり返してできる  B \Rightarrow A という命題を、もとの条件命題の「逆命題」という。また、 A B をそれぞれ否定してできる  \overline{A} \Rightarrow \overline{B} という命題を、もとの条件命題の「裏命題」という。

逆命題と裏命題を組み合わせてできる命題を、もとの条件命題の「対偶命題」という。つまり、条件命題  A \Rightarrow B に対して、 A B をひっくり返し、さらに  A B それぞれを否定してできる

 \overline{B} \Rightarrow \overline{A}

という命題を、もとの  A \Rightarrow B の対偶命題という。

例えば、「もし明日の天気が晴れなら、明日運動会が行われる」という条件命題に対して、その逆命題、裏命題、対偶命題を考えると、それぞれ次のようになる。

  • 逆命題:「もし明日運動会が行われるなら、明日の天気は晴れである」

  • 裏命題:「もし明日の天気が晴れでないなら、明日運動会は行われない」

  • 対偶命題:「もし明日運動会が行われないなら、明日の天気は晴れでない」

逆、裏、対偶命題の性質

条件命題  A \Rightarrow B の対偶命題  \overline{B} \Rightarrow \overline{A} に対して、前記事(命題論理 Part2)で紹介した「条件命題の言い換え公式」を適用させてみよう。すると、 \overline{B} \Rightarrow \overline{A}

 \overline{\overline{B}} \vee \overline{A}

と同じである。ここで、 \overline{\overline{B}} は二重否定なので元の  B と同じである。したがって、

 B \vee \overline{A}

となる。順序を逆にしても同じことなので

 \overline{A} \vee B

としておこう。

さて、この形を見て何か気付くことはないだろうか。「条件命題の言い換え公式」と見比べてみると一目瞭然だが、この形はまさに

 A \Rightarrow B

と同じである。対偶命題  \overline{B} \Rightarrow \overline{A} から出発して変形していった結果、それはもとの条件命題  A \Rightarrow B と同じになってしまった。このことをまとめておこう。

対偶命題の公式
 \overline{B} \Rightarrow \overline{A} \quad \Longleftrightarrow \quad A \Rightarrow B

要するに、「もとの命題とその対偶命題は命題としてまったく同じ」ということである。

同様に、今度は裏命題  \overline{A} \Rightarrow \overline{B} に対して「条件命題の言い換え公式」を適用させてみよう。すると、 \overline{A} \Rightarrow \overline{B}

 \overline{\overline{A}} \vee \overline{B}

と同じである。ここで、 \overline{\overline{A}} は二重否定なので元の  A と同じである。したがって、

 A \vee \overline{B}

となる。やはり順序を逆にしても同じことなので

 \overline{B} \vee A

としておく。

先ほどとまったく同じように考えると、この形は

 B \Rightarrow A

と同じである。つまり、裏命題  \overline{A} \Rightarrow \overline{B} は逆命題  B \Rightarrow A とまったく同じ命題になる。

逆、裏命題の公式
 \overline{A} \Rightarrow \overline{B} \quad \Longleftrightarrow \quad B \Rightarrow A

「もとの命題と対偶命題はまったく同じ命題」であり、「逆命題と裏命題はまったく同じ命題」である。このことは非常に重要な事実なのでしっかり覚えておこう。

逆命題・裏命題におけるよくある間違い

前節で「もとの命題とその対偶命題はまったく同じ命題である」と述べた。この事実より、当然、もとの命題の真偽とその対偶命題の真偽は必ず一致することになる。

ここで、多くの人が誤解しがちな、論理におけるよくある間違いを紹介したい。それは、「逆命題や裏命題も、もとの命題と真偽が一致する」と考えてしまうことである。一般にはもとの命題が真だとしても逆命題・裏命題が真になるとは限らない。このことについて、もう少し深く掘り下げていこう。

例えば、

「もし明日の天気が晴れなら、明日運動会が行われる」

という条件命題に対して、その裏命題は

「もし明日の天気が晴れでないなら、明日運動会は行われない」

となる。もとの命題を真だとしよう。この場合、もとの命題で「もし明日の天気が晴れなら」と書かれた時点で、この命題では「明日の天気が晴れである状況しか考えません」という宣言をしていることになっており、言い換えれば「明日の天気が晴れでない状況については一切言及しません」という立場を取っているのだ。要するに「明日の天気が晴れでない場合のことなんて私は知りません」というスタンスなので、裏命題のような「もし明日の天気が晴れでないなら  \cdots 」から始まる命題については「真とも偽とも言えない(分からない)」というのが正しい解答になるのである。

また、前節で述べた「逆命題と裏命題はまったく同じ命題である」という事実から、逆命題の真偽についても必然的に「真とも偽とも言えない(分からない)」というのが正しい解答になる。

なぜこういった間違いが起きるのか

なぜ多くの人がこういった間違いをしてしまうのか。もちろん、単に「論理的思考そのものが苦手で論理的思考を日常的に放棄している」という人も少なからずいるが、原因は他にもあると筆者は思う。ここからは筆者の個人的な意見・憶測が含まれるので、「なるほどこういう意見もあるのか」というくらいに思いながら読み進めていっていただきたい。

日本人は昔から「相手の気持ちを汲み取る(察する)」といった礼儀や作法を重んじる傾向が強かった。したがって、コミュニケーションの場面においても、その場の会話の流れや話し方の抑揚などから、「この人は本当はこういうことを言いたいのではないか」といった推測を立てながら話を進めていく傾向が強い。大の大人でも論理のルールを間違ってしまうのは、こういった日本人特有のコミュニケーション方法が大きく影響しているのではないかと思われる。

このことについてもう少し詳しく説明するために、今、例としてひとつ、こんな「シチュエーション」を考えよう。

職場の上司が「父親が危篤状態になった」と言って3日間仕事を休むことになった。その際、その上司は

「休み明けで俺が笑顔だったら父親は回復したと思ってくれ」

と言い残したとしよう。そして、休み明け、上司は出勤し、そこに笑顔はなかったとする。

さて、この場合、あなたはその上司の父親の健康状態について何を思い浮かべるだろうか。「論理のルール」だけで話をするなら、前節の「もとの命題が真だとしても裏命題が真かどうかは分からない」という事実から、「上司の父親の健康状態は悪化しているのかどうか分からない(悪化しているかも知れないし回復しているかも知れない)」と結論付けるだろう。しかし、現実的にこういった場面があったとして、あなたは「分からない」という一言だけで片づけられるだろうか。

おそらくだが、「上司の父親は亡くなったのではないだろうか」とか、「亡くなったわけではないにしても、かなり深刻な状態なのではないだろうか」とか、いろいろと思いを馳せることが出てくるはずである。こういった考えが頭に浮かぶのは、これはもはや論理のルールでも何でもなくて、「相手への気遣い」だとか「相手の気持ちを汲み取る」といった「コミュニケーション能力」の中での理屈である。「論理のルール」にこういった「コミュニケーション能力」が付け加わることで、日本人の言葉のやり取りは成り立っているのである。

日本語のやり取りにおいて、「論理のルール」も「コミュニケーション能力」も、これらはもちろん両方とも重要な要素である。いくら論理のルールをしっかり熟知していてもコミュニケーション能力が皆無であれば、「空気を読め」とか「デリカシーが無さすぎる」とか批判されてしまって周りからの信頼は徐々に失っていくだろうし、逆にいくらコミュニケーション能力に長けていても論理のルールをまったく理解していなければ、自分の主張1つ1つに説得力が無くなり、「何だかそれっぽいことは言ってるけどよくよく聞いたら言ってることが支離滅裂じゃないか」などとなりかねない。

筆者が言いたいのは、「どちらが大事か」ではなくて、どこまでが論理のルールを使っていてどこからがコミュニケーション能力を使っているのかの線引きをできるようになろうということである。線引きができないままだと「論理のルール」と「コミュニケーション能力」が一緒くたになってしまう。本当は論理的思考力が無いだけなのにコミュニケーション能力が不足しているのだと勘違いしてコミュニケーション能力ばかりを磨いてしまったり、その逆も起こりうる。

世の中には「人付き合いがとても上手でコミュニケーション能力自体は高いのにも関わらずディベートなどの場になると途端に言っていることがちぐはぐになってしまう」という人は数多くいる。そういった人は、コミュニケーション能力そのものを直接磨くのではなく、まず最初に「論理のルールの勉強」「論理的思考のトレーニング」をすべきなのである。そうすることで自身のコミュニケーション能力にも必然的に磨きがかかっていき、周囲からの信頼や評価も今よりさらに上がっていくと思われる。(次の記事へ続く)

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